開講予定の講義
本講義では、オランダ出身の現代の教育哲学者、ガート・ビースタの著作『よい教育とはなにか:倫理・政治・民主主義』を取り上げます。この十年間ほどの間に、ビースタの著作は続々と日本語に翻訳され続けています。世界および日本の教育界で大注目を浴びている著者であるといってよいでしょう。ビースタの教育哲学の核心を端的に要約するなら、人間という存在に伴う「弱さ」や「不確かさ」が、人間が人間を対象として行う「教育」という営みの根本に置かれるべきであるという認識にあるといえるかもしれません。そのような認識を基盤として、ビースタは、教育研究におけるエビデンス信仰を批判したり、学校と社会のなかで民主主義を学ぶ方途を描き出そうとしたりします。
ビースタの数ある著作のなかで『よい教育とはなにか』を取り上げるのは、まずもってこの本がとても便利な本だからです。まず、同書は多岐にわたるビースタ教育哲学全体への導入として読むことができます。『民主主義を学習する』(勁草書房、2014年)、『教えることの再発見』(東京大学出版会、2018年)『よい教育研究とはなにか』(明石書房、2024年)、『教育の美しい危うさ』(東京大学出版会、2021年)、といった、個々のトピックを主題として展開された他のビースタの著作群の問題関心が、各章にちりばめられているためです。
そして、これはビースタの著作全般にいえることですが、教育に関する現代の具体的なトピックを主題として議論を展開していくために、ビースタの著作を検討するだけで、教育哲学研究のおいしい部分を味わってみることができるというおトクさを備えています。同時に、ビースタはそのような議論を、デューイやアーレント、レヴィナス、ランシエールといった著名な哲学者の議論を手がかりとしながら検討する、大陸哲学的な研究の方法を採用するタイプの哲学者でもあるので、哲学(史)や思想(史)そのものへの関心を背景としながら、現代の教育問題を眺めてもらうこともできます。
ただし、こうした便利さやおトクさを備えた本であるために、ひょっとすると哲学の古典がもつ「読み応え」には欠けているかもしれません。難解な古典は、内容を理解するために、まずは著者の議論や意図を好意的に読むことを余儀なくされます。その意味では、この本は著者の見解に寄り添いながら読まなければならない性質の本ではありません(そのような読み方をしなくても十分に解読することができるからです)。実際、私自身はビースタの見解には全然賛同していません。ビースタの議論をあくまでも「たたき台」にして、みなさんとともに教育哲学のおいしいところを味わい、教育について私たち自身がもつ原理的な考えや価値の所在を辿ってみることが、この講義の目的です。
※講義では、ガート・ビースタ『よい教育とはなにか:倫理・政治・民主主義』(藤井啓之・玉木博章訳、白澤社、2015年)を使用します。こちらの邦訳をお手元にご用意いただくことをおすすめします。なお、原書はGert J. J. Biesta, Good Education in an Age of Measurement: Ethics, Politics, Democracy(Routledge, 2011年)です。講師は原書も必要に応じて参考にすることがありますが、参加者の方々にはご用意の必要はありません。また、講義計画の都合上、第3章および第6章については、詳細には扱わない予定です。
第1回講義:2025年10月05日(日):20:00 - 21:30
初回は、ビースタの経歴や著作群の紹介を行ったうえで、『よい教育とはなにか』の企ての大枠をつかみます。また、「教育哲学」という分野が、「教育学」や「哲学」といったより大きな学問領域といかに関わっているのかについてもお話します。
第2回講義:2025年10月12日(日):20:00 - 21:30
第1章「教育は何のためにあるのか?(What is Education for?)」の解説を行います。「教育は何のためにあるのか」という問いは、言い換えれば、「教育の目的とはなにか」ということです。ここでビースタは、「よい教育とはなにか」という問いの背景を、教育の「学習化」という現象に関連付けながら明らかにします。この章は、本書の主題全体をセットアップする役割を担っているため、「よい教育」や「学習化」のほかにも、「資格化・社会化・主体化」といったビースタ特有の言葉遣いに親しみながら、「教育の目的」という、教育哲学の最重要問題に触れていただきます。
第3回講義:2025年10月19日(日):20:00 - 21:30
第2章「エビデンスに基づいた教育(Evidence-Based Education, EBE)」の解説を行います。この章では、教育を科学的な「エビデンス」に基づいて設計・分析・評価しようとする昨今の潮流に対するビースタの批判が展開されます。EBEは、教育の効果を定量的に測定し、より効果の高い教育方法や教育政策を選択するための手法として推進されていますが、ビースタにとっては、人間という存在に伴う「弱さ」や「不確かさ」は、教育の効果を科学的な因果関係に還元することを根本的に不可能にします。このビースタの議論を、「医療」と「教育」の本質の比較、および、教育研究における「価値・規範」と、「科学・実証」の関係の観点から検討します。
第4回講義:2025年10月26日(日):20:00 - 21:30
第4章「中断の教育学」の解説を行います。「中断の教育学(A Pedagogy of Interruption)」の「中断(Interruption)」は、「妨害」や「邪魔」と訳出してもよいでしょう。端的に要約すれば、ビースタは、共同体や社会のなかに普及している生き方や考え方に向けて子どもが導かれるのを「中断」・「妨害」し、子どもたちが自らの主体性を形成することを促すのが、教育の本質的な機能だと考えているのです。しかしながら、伝統的・保守的な教育についての構想は、これとは反対に、共同体や社会に共有されている考え方に子どもを導くことこそが教育の本質だとみなします。ビースタとは対立する考えを展開したカントら他の哲学者の思索をも手がかりとしながら、「中断の教育学」を批判的に検討しましょう。
第5回講義:2025年11月02日(日):20:00 - 21:30
第5章「デューイ以降の民主主義と教育」の解説を行います。ビースタはここまでの「よい教育」についての議論を、「民主主義」と関連付けようとします。章のタイトルに含まれる「民主主義と教育(Democracy and Education)」とは、20世紀最大の教育哲学者ジョン・デューイの主著の主題です。ビースタはここでデューイにならって、民主主義を、多数決を通じた意思決定の原則としてではなく、個人の好みを社会の共通善へと変換するプロセスとして理解します。ここでもビースタは、「主体化」を民主主義と教育を結びつけるための鍵として位置付けます。「政治」や「民主主義」と教育の関係―すなわち、教育は政治から自由であるべきなのか、それとも、教育は民主的な市民を育成する手段としてふさわしいのか。プラトンの『国家』以降、連綿と問われ続けてきたこの教育哲学上の難問を、ビースタの議論、およびデューイの『民主主義と教育』をたたき台に考えます。
私は教育哲学を専攻していますが、「教育(学)」も「哲学」も、人の関心を強く惹く、大きな学問上の主題です。でも、あわせて「教育哲学」となると、とたんにマイナーで地味で、何をやっている分野なのかピンとこないと感じられる方は少なくないのではないでしょうか。ところが、教育学の起源や歴史の少なくない部分は、哲学の起源や歴史そのものと重なっています(たとえば有名なプラトンの『国家』篇は、政治・国家論であると同時に、教育論でした)。「教育」と「哲学」を掛け合わせたときにはじめて味わうことのできる思索のたのしみを、教育哲学にとって重要な文献を紐解くことで探ってみませんか。