開講予定の講義
本講義の目的は、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』を精読し、アウシュヴィッツ=ビルケナウで密かに撮影された四枚の写真に関する著者の分析を、視覚文化論・歴史哲学・記憶研究の観点から多角的に理解することにあります。本書は、単にホロコーストの「証拠写真」を論じるものではありません。むしろディディ=ユベルマンは、アウシュヴィッツという極限状況を通して写真をめぐる倫理的・歴史的・認識論的問いを根底から掘り下げ、「イメージとは何か」という普遍的な問題へと読者を導きます。
本書の中心に置かれるのが、「イメージはすべてに抗して(malgré tout)生まれる」という命題です。これは単なる印象的スローガンではなく、イメージとは、歴史の暴力的な抹消、証言の禁止、死の産業的制度、そして〈見ること〉そのものの破壊を企てる政治的装置の只中から、イメージが「それでもなお(malgré tout)」生成してしまう———その出来事性を指すものです。ディディ=ユベルマンにとってイメージとは、外界を模写する静的対象ではなく、不可視化の制度を破り現れる痕跡であり、記憶の「閾」としての時空間を構成するものに他なりません。
本書がとりわけ示唆的なのは、「表象不可能性」という概念をめぐる批判的検討です。アウシュヴィッツを「表象不可能だ」と述べる態度は、一見すると敬意を示すもののように見えます。しかしディディ=ユベルマンは、それがしばしば「怠惰」を招き、歴史の痕跡へ向き合う努力を停止させてしまう危険を鋭く指摘します。彼はむしろ「想像する義務」を強調し、イメージがもたらす倫理的要求を受け止める責任を説くのです。
本講義の最終的な目標は、四枚の写真が単なる「証拠」ではなく、見ること・語ること・思考することを根底から揺さぶる「イメージ」であることを理解することにあります。ディディ=ユベルマンの読みの核心に触れつつ、イメージの倫理と政治、そして歴史的責任についての考察を深めていきます。
このような問題意識に基づき、本講義では全5回にわたりテクストを購読します。冒頭から順を追って読み進め、各パートの要点を丁寧に解説します。
なお、この講義では以下の邦訳を用い、適宜原文も参照します。邦訳は基本的には、2025年版の平凡社ライブラリーを用いますが、講義では2006年版の該当頁も記載します。
・ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真(平凡社ライブラリー989)』橋本一径訳、平凡社、2025年。
・ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』橋本一径訳、平凡社、2006年。
・Georges Didi-Huberman, Images malgré tout, Paris, Minuit, 2003.
みなさんのご参加を心よりお待ちしております。
第1回講義:2026年01月11日(日):20:00 - 21:30
範囲:「Ⅰイメージ、すべてに抗して」(pp. 11–72)
内容:第1回の講義では、アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真を中心に取り上げ、「イメージとは何か」という根本問題を解説します。ディディ=ユベルマンの議論をもとに、表象不可能性を理由にイメージを否定する立場を批判し、写真を断片的な痕跡=アーカイヴとして読み直す視点を紹介します。写真が単独で完結した証拠ではなく、他の証言や資料との関係のなかで意味を獲得することを確認します。あわせて、「モンタージュ」を、表象不可能性に抗してなお思考を持続させるための倫理的実践として解説します。
第2回講義:2026年01月18日(日):20:00 - 21:30
範囲:「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」(pp. 75–131)
内容:第2回の講義では、「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」という問題を中心に、ホロコーストをめぐるイメージ理解の二つの極端な態度を解説します。素朴な実証主義による「事実としてのイメージ」観と、崇拝や忌避を伴う「フェティッシュとしてのイメージ」観の双方を批判的に検討します。エリザベット・パニュおよびジェラール・ヴァジュマンの議論を手がかりに、ディディ=ユベルマンの問題提起を読み解きます。イメージを完全な証拠でも禁忌の対象でもなく、欠落と残余を必然的に孕む痕跡として捉え直す視点を紹介します。
第3回講義:2026年01月25日(日):20:00 - 21:30
範囲:「イメージ=アーカイヴあるいはイメージ=外観」(pp. 132–175)
内容:第3回の講義では、ディディ=ユベルマンが、イメージを「過去をそのまま保存するアーカイヴ」や「出来事の外観を直接与える証拠」と同一視する考え方を批判する点を解説します。クロード・ランズマンの実践や、エリザベット・パニュ、ジェラール・ヴァジュマンの議論を検討対象としながら、アーカイヴが単なる記憶の貯蔵庫ではなく、再配置と再解釈によって構築され続ける装置であることを読み解きます。見る行為と読解のプロセスを通じて、つねに意味を更新し続ける「開かれた思考の場」としてのイメージを説明します。
第4回講義:2026年02月01日(日):20:00 - 21:30
範囲:「イメージ=モンタージュあるいはイメージ=嘘」(pp. 176–221)
内容:第4回の講義では、「イメージ=嘘」として映像を全面的に否定する立場に対し、ディディ=ユベルマンが提示する「イメージ=モンタージュ」という思考枠組みについて解説します。ゾンダーコマンドの写真は、単独で完結する証拠ではなく、複数の断片が接続されることで初めて歴史的可読性を獲得するイメージであることを示します。また、ゴダールの映画実践は、イメージの連鎖が意味を生成するというモンタージュの力を体現するものであることを明らかにします。
第5回講義:2026年02月08日(日):20:00 - 21:30
範囲:「似ているイメージあるいは見せかけのイメージ」(pp. 222–271)
内容:第5回の講義では、ホロコーストをめぐる写真や映像が生み出す「似ているイメージ」や「見せかけのイメージ」の危うさについて解説します。ディディ=ユベルマンは、視覚的類似が出来事をあたかも理解可能なものとして見せかけ、思考を停止させる危険性を指摘します。こうした錯覚に抗うためには、差異や断絶を意図的に組み込むモンタージュ的思考によって、イメージを問いを生み出し続ける思考の場として捉え直す必要があることを説明します。
こんにちは。フランス17〜18世紀美学・美術史を研究している村山雄紀(むらやま ゆうき)と申します。現在は日本学術振興会特別研究員(PD)として研究に従事しています。専門はフランスの絵画理論家であるロジェ・ド・ピールをはじめとする17〜18世紀フランス絵画言説史であり、近年は芸術家による自然観察や戸外制作といった領域を横断しつつ、とりわけ気象学と美術史を架橋する視点から研究を進めています。とくに、当時の芸術家たちが雲・雨・風・嵐などの気象現象をどのように捉え、「見ること」や「描くこと」を理論化していったのかを探究しています。
The Five Booksで講義を担当するのは今回が初めてですが、これまで大学や研究機関において、美術史・視覚文化論・イメージ研究の講義を行ってきました。今回取り上げるのは、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』という、美術史・哲学・イメージ研究の領域で現代的な議論を切り拓いた重要な著作です。私がこの本に初めて出会ったのは大学生の頃でした。アウシュヴィッツ=ビルケナウで密かに撮影された四枚の写真をめぐるディディ=ユベルマンの読解は、イメージとは何か、見るとはどういう行為なのかを根底から問い直すもので、私自身、(狭義の)美術史という学問が扱いうる倫理的・政治的射程の広さに深い衝撃を受けました。イメージとは単なる視覚情報ではなく、人間の歴史・記憶・暴力・抵抗といった問題系と複雑に絡まり合いながら出現する———その事実を本書ほど厳しく、かつ繊細に示した書物は多くありません。
イメージ研究とは、私たちが日々接している「イメージ」が、いかに世界を形づくり、私たち自身の認識や感情にどのように作用しているのかを考察する学問です。メディアやSNSを通じて、かつてないほど多くのイメージが流通し、誤解や偏見が拡散しやすい現代社会において、イメージを批判的に読み解き、そこに潜む倫理的・歴史的問題に向き合う視点は、私たちの思考をより豊かにしてくれるはずです。
さらに、世界各地で続く暴力や戦争を伝える映像は、ディディ=ユベルマンが論じるように、出来事を「そのまま表象する」ことの不可能性を抱えつつ、断片や欠落を孕んだまま私たちの前に現れます。しかしそれでもなお、こうしたイメージは問いを投げかけ、想像力と判断を要請する痕跡として機能し、私たちが暴力の現実を思考し続けるための重要な契機となるでしょう。
The Five Booksでの講義を通して、イメージ研究の奥深さと刺激を、少しでも多くの方にお伝えできれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。