
アニー エルノー
この講義では、2022年にノーベル文学賞を受賞したフランス人作家アニー・エルノーの代表作の一つである『場所』(原題:La Place)の全文を読みます。1940年にフランス北部のノルマンディー地方に生まれた彼女は、自伝的な作品を書き続ける中で、家族やジェンダーなど、現代社会を考える上で重要な諸問題を扱ってきました。
中でも注目すべきは、エルノーが、いわゆるブルーカラーの両親のもとに生まれたにもかかわらず、大学を卒業して教員となった事実でしょう。彼女の両親は、カフェ兼食料品店を営んでいましたが、もともとは労働者階級に属していました。社会階層を超えたことで生じた葛藤は、エルノーの作品に繰り返し登場する主題です。デビュー作の『空の箪笥』(1974)以来、同テーマは反復されてきましたが、そのことは今回読む『場所』にも共通しています。
1984年に発表された『場所』は、同年フランスの高名な文学賞であるルノドー賞を獲得し、エルノーの名前がフランス文壇に知られるきっかけとなった重要な作品です。自伝および伝記的な性質を持つ本作では、作家自身の姿と重なる語り手が、父親の人生を再構成していきます。農場や工場で労働者として働いてきた父は、同じく工場労働者だった母と出会い、後にカフェ兼食料品店を開店します。両親にとって、カフェの経営者になることは、労働者の悲惨さを脱し、社会のはしごを一段上る重要な経験でした。しかし、二人の間に生まれた娘、すなわち語り手は、カトリック系の私立の女子校に通い、大学を卒業して、やがて教師になります。階級の越境を経験した彼女は、二つの世界の板挟みになり、葛藤を覚えます。父も、娘に対する尊敬と嫉妬の相反する感情を抱き続けており、そうした登場人物の複雑な心情が抑制された筆致で描かれていくのです。
エルノーの作品は、比較的簡潔な文体で書かれており、『場所』に関しても、文意を把握するだけであれば、それほど難解とは言えません。しかし、自伝的作品という性質上、作者自身の経歴を知ることは必要不可欠です。また、エルノーは自身の人生を語る中で、それを常に社会や言語といったより広い問題と結びつけようとします。そのため、フランス社会やフランス語についての情報を提供することで、作品をより深く理解することが可能になるでしょう。
そこで、本講義では、「自伝」、「社会階級」、「言語」といったエルノー文学のキーワードについてみなさまと考えながら、『場所』というテクストを読み進めていきます。エルノーが描いているのは主にフランス社会ですが、その問題意識は現代の日本を生きる私たちと無関係ではありません。特に、近年「格差社会」の弊害が指摘される日本においては、『場所』に見られる「社会階級」に関する問いは多くの示唆を与えてくれるはずです。本講義を通じて、みなさまがエルノーの作品に少しでもご関心をお持ちになっていただければ嬉しく思います。
なおこの講義では、アニー・エルノー、堀茂樹(訳)、『場所』、早川書房、1993年を使用します。
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